万年輪廻

記録、日記

6月25日

 

朝になってしまったけどとりあえず書く。

 

金曜日、ファトマの知り合いで、占星術家で石の専門販売もしてるチーデムさんと朝会う。私も彼女からブレスレットを買った。彼女にとってファトマは太客。

 

チーデムさんが自分の先生を紹介。

先生はムラトと名乗る明らかに能力者の感じだった。家に帰ってからファトマと「宇宙人みたいだったね」と話したが本当にそんな感じ。異形感さえあった。

ファトマの身体をスキャンニングしたり、昨今のスピリチュアル用語の流行に対して批判的な立場をあらわにしたり、

私については「黄色い光がずっと流れている」とか「日本人と言われなければコンヤから来たと言われても分からない」とか言っていた。

面白かったけど怖かった。ファトマも同じで、イスラームの外に出そうとしているようで怖かったらしい。

「毎日散歩の時、同じところへ砂糖を残すように。蟻たちの祈りは強固である、彼らは恩を忘れない。彼らに助けを借りて神に祈るといい」というようなことを言っていたのは面白かった。

イスラームの皮を被ったシャーマニズム的な。

私は1時間くらいしか一緒に居れず、ファトマは録音もしてたけどすぐ消していたので、私が去った後の会話の内容は分からない。

ただ、「これからは何か会ったとしても誰ともシェアするな(喋りすぎるな)」と念押しされたらしく、ただルームメイトである私とはシェアするべきと勧められたらしい。

う〜ん。

翌日の朝にファトマとも話したけど、不思議な力があるからって初対面の人に何言われても信じようがないし、そもそもイスラームそのものはシンプルで神はそれだけで完結したものだから、他の誰かに必ずしも頼る必要はないよねと。

私は誰かに追従する気はないし、追従させる仕組みには反対。小さいカルトを無限に作ることは人間という共同体を分断させる働きに見える。

それぞれの正しさができてしまったら、神の正しさは証明できないのではと思ってしまう。何が正しいかは人間にとってではなく、神にとっての問いなのに。

ファトマがスピリチュアルブームの犠牲者となって、ロマのごとくあらゆるヒーラーのもとを転々として人生混迷していくのはなんか無惨。

それに明らかにノイローゼになってると思う。

次々に石を買っている。石が「女性的エネルギー」とか諸々の足りないエネルギーを引き出すのだとか。

私にもそれが必要らしい。男性性と女性性のバランス。

自己実現は自己限定だし、自己否定だなと思う。

肉体の欲望は制限だし、自分の思ってる自画像というのも抑圧的なものだと思う。

なんでもいいのになあ。

感じたことが全てだよなあ(深夜高速)

 

その能力者たちの会合を後にしてから私は協会の友人とその姪っ子とベイコズに行った。海峡ツアーというやつ。

楽しかった。自然が美しかったし、友人の話も面白かった。

秘密は誰にも言うべきではないという教訓(無限に尽きることのないおばあさんの鍋料理の話)とか、聖者フズルの話だとか、イスタンブル各地の神秘的なエピソードとか。

ベイコズのアイス屋さんも良かった。

友人は40歳を超えてる(そうは見えない)が、今は第二の人生的にスーフィズムを勉強して博士課程やっていて、もうすぐ博論も終わらせなきゃというところまで来てるらしい。みんな本当にすごい。

私も頑張らなくてはなあ。

 

土曜日は目覚めてからファトマと話してバイラムの予定を立てた。

一緒にカスタモヌに行こうと話した。そういうのが結局一番薬になったりするよね。

嬉しそうでホッとした。

夕方からオルチュンとベシクタシへ。

ヴィーガンのラフマージュン、ジャジュック。

ベシクタシからカラキョイへ、最近仲良くなったテイくんと合流。

自分は気持ち悪いという観念が帰り道に増す。

 

トルコで過ごせる時間が短くなってきた。

なんか寂しい。でもそろそろお寿司食べたい。

私はなに人にもなりたくないし、何にもなりたくないな。

誰かにわかってもらえる自分も決めつけに思えるし、自分を小さくする働きには争っていきたいなあって思ってしまう。

魂のうちにある精髄に近くなって、ミクロコスモスのような存在体になりたい。

過剰な愛も毒だし、家族も友人も恋人も全ての間に風が吹き抜けるように距離が必要だな。愛は主観と客観を分けるものでもあるし。

種としては分けないで個人としては別ける、みたいなことが必要だ。

 

 

 

6月21日

 

似非デレラ(ZiDol)がありがたい。

二日前くらいにみて一気に好きになってしまった。

中やん(推し)歌うまい。マユリカ二人とも好きすぎる。

今日は、Keep Sweetというネトフリのドキュメンタリーを見てみたが、やっぱり胸糞以外の何ものでもなく、見終わった後に似非デレラを何十回も聴くことになってしまった。

カルト教団はその時の世相の反映だと思える。

騙す方は完全な悪だが、騙される方も悪い。というか不自然に見える。自分の家族より大事なものとかあるのか、まああるんだろう。

インタビュー答えてる奴らも共犯だろ、と冷めてる自分がいた。

出てくる人みんな目がおかしくて怖かった。

 

今日は朝起きたら頼んでいた占星術のおばさんからブレスレットが届いてて、夜分析結果が音声データで送られてきた。

男だと思われてたらしくて、言われようが散々だった。

 

・悪魔の羽がある(=スケコマシ)

・誰も思いつかないことを思いつくが、それを形にするための行動力はない

・常に2,3人と同時に関係を持つ

・刺激もとめすぎてすぐ飽きる

・お笑いの能力がある、諺を言うみたいに格言を連発する

・知識獲得の欲求が強いがすぐに飽きる

・事の詳細に埋もれて頭の中めちゃくちゃになりがち

・一つのことに集中できない

・NOと言えない、というか何事も決められない

・優柔不断のせいでとにかく苦しむ

・2回目の結婚もあり得る

・好きだと思ったらずっと関わるが、怖いと感じたら逃げる

・内的世界は深くて繊細で、誰にも理解できない

・パートナーに束縛されることを望まない、うざいのは無理

・パートナーが「自分のこと本当に好きなの?」と聞いてくるたびに鬱陶しがる

・他人を鋭く見抜くのでよく話し相手をびっくりさせる

・家族関係でトラウマが多い、若い時から責任を押し付けられてきた

・そのせいで必要な愛情を受けられなかった

などなど

 

男性性がとにかく強いらしくそれで男だと思ってしまったとのこと。

女性性をもっとうまく出せるようになるといいらしい。

う〜ん。

 

ていうかもっとポジティブな解説ないんかいという。

不甲斐ない、、、似非デレラ聞くしかない、、、。

でもブレスレットはすごく気に入った。つよつよになれそう。

 

寝る前にファトマとちょっと話したけど、彼女の話は60パーセントくらいの力で聞かないとやっぱり疲れる。

友達なのでうんうんと聞いて頭の中で論理を整理してるのだが、なんだか核心の部分はよく分からないままである。

こんなに話してるのにまだ分からん。というか他人に言ってほしいことが決まってるんだろうけど、それを誰も言ってくれないからしんどいのだろうな。

彼女が自己開示が下手なのも悪いが。慣れていないんだろう。すごく抑圧的な人間だなと思う。生きづらそう。

私も彼女の言う「私を頼りにしてくる奴ら」なんだろうな、と思わされて罪悪感のようなものを植え付けらているような気もした。

他人にもう何も期待しないと不貞腐れる彼女を見て、気高い人間は孤独を選ぶのだなあと感心した。私は人間が好きだし、自分のことは嫌いなので孤独にはなれない。

 

彼女に、あなたにとっての幸せって何よって聞いたら「私の望むようになること」と言っててさすが牡羊座だなと思った。

私にとっては「神の意志と自分の意志が一致すること」なのでほぼ真逆だなと感じた。

というか私は自分がいなくなってほしいってずっと思ってるので、私は私で他力本願すぎて自分の手で獲得するという意志が足りなすぎるのは問題や。遠慮とか謙遜もやりすぎると破壊よな。わかってるけどなあ。

 

直接会ってよく知り合う前に誰かのことを分析する癖が彼女にあってそれが本当に良くないと思うけど、心理学や精神医学の畑にいる人は手の中にあるデータを先入観で判断していくのが方法論として確立されるみたいだし、別に必ずしも悪いことではないらしいというのを最近知った。

まあ別になんとでも言っておいたらいい。そこに感情がないことも最近わかった。

分析なんだよね、彼女にとって彼女の意見というのは。そこまで冷静に物事を判断できる人はそのままでいたらいいと思う。私は冷静じゃない時の方が多いから無理だけど。

みんな違ってみんないい、というのが30になって刺さりまくるのすごい。

今ではよくわかる。全員好きなように生きたらええねん〜。

 

ずっと!裸足!似非デレラ!

らったった、らったった。らったった、らったった

 

グッバイ、ボーイ!

らららららららら

 

 

 

 

6月20日

昨日30歳になった。

 

色んな人の寛大な優しい視線を四方に感じながら、そして様々な縁を恵んでくれる神に感謝しながらイスタンブルでゆるりと毎日を生きている。


20代の後半があまりにもボロボロで、あと人生の前半がトラウマだらけなこともあって過去を思い出しては、笑いながら目の奥で泣いてる日々が最近続いていた。

そういうのを察して、ルームメイトを含む友人らが「もう過去は過ぎ去ったし、存在しないのだから」とそれぞれ助言してくれたのはすごく心の支えになった。

 

このコロナ禍という人類全体の危機に瀕して、私は自分の過去を整理する時間を授けられたのだと思う。

2020年3月に投稿論文を書こうとしていたら突然フラッシュバックがきた。それからコロナの波及と呼応するようにはっきりとした病気の症状が出てきて、どんどん転落していった。

経済的な不安定は精神を蝕むし、精神へのダメージは肉体にも響くことがよくわかった。心は体と繋がっている。お金がなくなってくると転落ぶりは顕著になった。安定した仕事があるって大事なのかもね。

信頼に値するかという価値基準が自分の中で大きなバロメーターになっていることもわかった。信頼できない何かしらの要素があるとその人とはどんな形であれうまくいかない。怖くなってしまう。実際はその人の問題でないことも多い。私の問題。

虐待された子供はみんなそうだと思うが、信頼できる人間かどうかという目が肥える。警戒心のかたまりに凝視され、分析される側は気味が悪いはずだが仕方ない。

 

虐待されていたとか自分の経験を明白な被害であると認めることも大変だったが、自分の中ではそういう風に考えないと前に進めない気がしたのでそう結論づけることにした。

結局私も毒親の子供だったという話だ。

本気で死のうと思った期間の後、生きてるだけでいいって言ってくれた人が何人かいたけど、私も私に対してそう言ってあげたい。

 

暗闇に向かって走り出した時の気持ちをまだ感じることができる。

ここから逃げなきゃいけないと思って、裸足で家を飛び出したことがあった。追いかけてきたのは私のことを「いらない」と言ってた義理の父だった。母親が追いかけてくれることはなかった。

いつも私が怒ったり泣いたりすると問いつめられ、何が嫌なのか理由を求められ、物を投げられ、怒鳴られ、ぶん殴られ、物を勝手に捨てられた。自分の感情の引き換えに何をされるかわからない環境だった。

ある時、喧嘩の後、自室でカッターの刃を見つめているところを見つかって、母親に「死にたいのかそれならそこから飛び降りて死んでみろ」と怒鳴られて、めちゃくちゃに殴られた。

その時はっきりと解離が起きたことを2020年3月のフラッシュバックで完全に思い出したのだった。カッターを握っている自分は存在しているとも言えるし、存在していないとも言える状態だった。

カッターには自殺の意図はなかった。ただ、それを見ていたら自分は抜け殻だと思えて、その不思議な感覚のなかで放心して、ここにはいない自分・パラレルワールドにいる自分を感じていた。

そして、7歳の時の記憶も同時に蘇った。部屋で息を殺しながら、親の喧嘩に耳をたてて「自分がいなければ」と祈るように念じ続けている自分の姿を見た。

二人の喧嘩は私の存在がいつも争点になった。

私がいるからみんな不幸なんだと7歳の時に決まった。それから自分の存在に対して「いない」と思う癖がついた。

義理の父はいつも食事のたびに私の食べ方が汚いと怒って、母親はそれに気が付かないふりをして、ひどくなるまで放置した。

私はずっと正座して、消されて真っ黒になったテレビを見つめながら、震えるような右手でお箸を握って、お茶碗をそっと添えるように左手で支えて、ご飯を食べていたが味はしなかった。何が美味しくてまずいのかも分からない。

テレビの音がない部屋では私の咀嚼音が嫌に響くような気がして怖かった。いつも怖かった。何か失敗をするたびに小言を言われて、家の中の不穏さは全て私のせいにされた。私が母親の連れ子だからという事実が彼にとっては大問題で、いつまでもそのことにこだわった。私には「お父さん」と呼ぶように強制してきたけど。

弟が生まれて1年後には彼とは話さなくなった。「いらない」と言っていたのを聞いてしまったから。話さなくなったのはあの子のせいだと母親に言い続けていた。

彼にとって私には名前がなかった。名前で呼ばれたことはこれまで一度もない。

そういう人でも生きてていいんだから現世って意外と楽勝だなと思う。意味がないとか、悪だとか、無駄だとかそんなこと現世じゃノーマルじゃないか、何を悩んでいたんだか。誰にでも存在の権利があるなんてこの世界は不平等だと思ってしまう。

 

26歳の時に母親が私の言葉で過呼吸になっているのを見て、これまでの全てに限界がきて、絶交を告げて逃げるように実家から去った。泣きたいのはいつもこっちなのに、親の前では涙の一滴も流れなかった。

その時も裸足で逃げた時のことを思い出していた。大人になったら誰も追いかけてこないのだと知ってほっとした。靴も履いていたし、普通に電車に乗って、京都の自宅に帰れる自分が少し誇らしかった。その家には彼氏もいて、その時京都に友達も住んでいて、絶交したというと彼女がすぐ迎えに来てくれたと記憶している。

放心状態だったけど、彼女の前では泣いたような記憶もある。

そのあと、高橋源一郎さんがインタビューか何かに、20代に親と絶交したということを告白していて、それをみて私も30歳になるまでは一切の連絡を断つと決心した。

30になる前に精神的に破綻して、それでも何も言わずに死のうとしてる自分に対して助け舟を出してくれる人が現れた。

それでやっと母親に面と向かってこれまでの自分の目から見た家族の話をぶつけられた。フラッシュバックして以降、思い出した過去のトラウマから、解離を繰り返して精神科に通うようになるまでの話をした。それが29歳になる前の2月くらい。

もう怒っても泣いても殴られたりしないけど、ただめそめそして狼狽する惨めな50代の女の人が目の前に座っているのを見たら何かを言う気を削がれた。

言いたくても言わせてもらえない。

逃げたくても逃げられない。

大人なのに親の目から見ればずっと子供の自分がいる。

私は誰なのか、誰にされてるのかも分からなくなる。

彼氏や友人たちの目から見た私は親と離れてから10年の間に作り上げた自分?

親の目から見た私は18歳までの自分?

親と会うたびに私の自画像が崩壊していった。言葉で伝えようとするけど、自分の中の真実であり、核心である部分は何も伝わってないとしか思えなかった。

憎んでも憎みきれないかわいそうなおばさんがいつも悲しそうに泣くので、苦しめれば苦しめるだけその人の寿命を縮めてしまうようで、私も全ては説明できなかった。

言葉が達者だとか、器用だとか言われてきた私の能力はこの日のためにあったはずなのに、と内心思いながら、母親にぶつける言葉はずっとつっかえ続けた。何か言うたび吐きそうだった。嗚咽に近い勢いで言葉が出てきて、自分でも混乱した。

ずっと前から、私の誉められるところは私にとっては全て嘘で、称賛の言葉は呪詛みたいに聞こえていた。誉められるたびに、言いたいことは何も伝えられなくなるジンクスがはたらいてるように思えた。

影を見ないで光だけを見てくれる人たちに、そのままでいてほしいっていつも願っている。私を照らしてくれるのはあなただと思う。私それ自体には何もない。虚構ばっかのドロドロの自分のいいところだけを見てくれる人を私は大事にしなければいけない。そんなふうに決まってしまっているのだと思う。

そういう人たちがいなければ生きていけないから。誰にでも受け入れてもらえる自分だけが存在してるわけじゃないから。

もし私の暗くて醜い部分を見てしまったら、みんな黄泉の国で振り返ったイザナギみたいになるんだろう。逃げて、逃げ切って、妻と絶縁するイザナギ。黄泉の国に取り残される醜いイザナミ。あまりにもかわいそうだ。美しいままだったら話は変わってただろうに。

そういえばイザナミ綾波レイにも似ている。レイもシンジにとって母親のクローンという近親相姦を彷彿とさせるグロテスクさを持っているキャラクターだった。レイは救われたのかな。救われていてほしい。あわれだ。

 

親と会うようになってからは、激しい頭痛や原因不明の湿疹、解離で身体が動かなくなったり、悪夢のあとフラッシュバックしてめちゃくちゃな行動を取ったり、どんどん身体的に、目にみえるような形で症状が出てきた。そうしてる間に29歳になった。

多分解毒の過渡期であった。フィナーレに向かってあらゆる症状が出た。

外に出た瞬間、悪寒が止まらなくてパニックになって「親が死ぬ」という妄想に囚われてその場で全身が震えてうずくまってしまうこともあった。その時もお坊さんが助けてくれた。

バスに乗るたびに軽いフラッシュバックが起きて何故か涙が出たり、電車で長時間移動するたびに胸が潰れそうになったりした。

誰か殺してくれと願う毎日がなんとかすぎて、トルコに行けることになってもう7ヶ月半過ぎた。

 

この日記も半年くらい休んでいたが、急に再開してみることにした。半分死んでいるような命でも、ここでの1日1日に価値があることは事あるごとに思い出す。

何か書かなければ、書き続けなければというのも今日電車の中で考えた。無様でも書くしかない。それ以外の自己表現の手段は私にはないのだから。書いても書いても多すぎるとは誰にも言われないだろうし。別にプロでもないのだし。売るわけでもなし。

でも書くときは書くのだから、私は真理の輪郭を、そんなものなくてもなぞるしかない。なぞり続けて、真理が目にみえるように喩えていかなければいけない。網目を細かくしていくために命を削らなければいけない。そうじゃなきゃなんで言葉の意味があるのか、それもわからなくなったら自分は誰かという疑問の中にますます自分は埋没して消滅するような、そんな恐れすらある。

 

書くことで書くことが成立するうちは書きたい。

思い出せば辛いことばかりだけど、別にそれは減るものじゃない。書いても消えない。でも増えもしない。

30歳になっても私はずっとイザナミのままかもしれないけど、私は醜いまま世界との関わり方を考えていきたい。自分はこれでしかないから。そして他人も他人のままであるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

1月10日

 

比較的早くねれたのに、お昼が過ぎてからしかベッドから出られなかった。

何となく鬱鬱としてしまう。

もう全く話したくない、もう全く何もしたくないモードになってしまっていたのだが、ファトマは朝から元気だった。

謎の食事を出してくれる。

数秘学的には恵みが多い1週間が始まるの!と嬉しそうだった。

私は数秘学なんて嘘っぱちや!と心の中でむくれる。

 

鹿児島に行きたいなと思う。

というかもうずっと九州に住みたいと考えてしまっている。

結局トルコに来ても、人間のせいでしんどいという日々が続いている。

日本に帰りたい、と泣きたくなるくらい日本が恋しくても、帰国して京都についてみれば鬱になるに決まっている。

現世は厳しい。

 

夜もファトマが暇なら話そうよと言ってきたが話したくなかったので、授業の録画動画をみた。

ムスリムの歴史上最初の罪は、神がアダムに跪拝せよと命じたことに背いた悪魔の罪で、「妬み」である、と。

それを聞いた時、トルコ社会の人間関係で一番根っこにある問題じゃないの、、、と思ってしまった。

どの問題も妬みが問題だよねえとアリソンともブルサで話し合ったところだったし。

妬みを洗い流すために天国の手前には川が流れてるとか(三途の川みたい)。

人間の悪魔的なところだよ。

嫉妬は嫉妬される方もする方もしんどいだけだ。

 

授業見終わってから翻訳を少しだけした。

時間をかけてみる。

楽しいが、こんな膨大な作業いつ終わるんだろう、と思ってしまう。

博論なんて書けるのかな。怖いよー。

死ぬよりはマシと考えて、大学を離れるのも本当にありかもしれない。

というかこんなに追い込まれてる人間に何ができるんだろう。

考えもまとまらないのに、自分の研究に集中できるんだろうか。

いい仕事ができるんだろうか。

未来の自分の職場に希望が持てないのに、このままずっとこの道を進めるべきなんだろうか、とか山ほど不安はある。

今日何かすごく大事なことに気がついたと気がしたけど、もう忘れている。

考えは浮かんで消えて、不安だけが残る。

こんな毎日ではいけないと思う。

誰も助けてくれないので、私は手を動かすしかないと思う。

とりあえず、だが。

 

 

 

1月7日

 

引き続き日本に帰りたい日々である。

というか昨日本当にあった怖いメッセージが来たので、ぞわぞわがとまらん。

夜中までファトマに話聞いてもらい2人であらゆることを話した。

そのあと落ち着いたと思ったけど、どう考えても気持ち悪く、攻撃的で破壊的なメッセージの内容に嫌悪感がどんどん増すのであった。

わたしがここで外国人であることから彼女が近づいてきたというのも前からわかってた。

何でも話せるから親友でもあるというのは、わたしが外国人であるから何でも話せる、ノンポリの東洋人だからという前提があってのことだもんね。

東洋人であることをわたしは誇りに思うけど、利用されることを良しとは思わない。

ものすごい執着でベタベタ付きまとってきたあとの、ものすごい罵倒。

モラハラだよ。本当に疲れるからやめてほしい。

この世界好きになるために頑張ってるのに、人間の醜いところをここまで晒さないでほしい。

醜悪すぎる。勘弁してくれ。きもい、、、、

 

昨日夜ジャックという96年のアメリカ映画をネットの人と一緒に見たが、ネットの人との距離感が楽で心地よいと感じた。

映画を観終わったあと、彼はじゃあ寝るねって言っておちた。わたしもおーすっておちた。

わたしは彼の顔も知らない。

でもまた今度違う映画を見ようと約束した。

 

今日は取り立てて何かあったわけでもなかったが、本当に身体が重くて仕方なかった。

ちょっとだけ仕事的なことをして、授業を受けたら1日が終わった。

ツインレイについて改めて考えたりしていた。

わたしがツインレイだと信じてた人のことも少し考えていた。

彼がもうすでに死んでたとしても結婚してたとしても、執着する気持ちはないなと思った。

会うことになったとしても、身体がふるえて怖くなって逃げ出してしまうと思う。わたしもすごく臆病だから。

わたしは逃げてばかりなんだ、と昨日からずっと考えているが、逃げる以外の自己防衛の方法を知らないのだと思う。

シンジくんみたいに成長できるのかな。

ミッフィのように黙っていてはだめ、とファトマも言った。彼女はミッフィからはいいエネルギーを感じないと前も言っていた。

めんどくさいと感じると途端に冷たくなる自分はわたしが恐怖した彼と同じ態度だと重ねてしまう。

人間関係とはなんて難しくて、悲しくて、重い罰なんだろう。

 

友情はそれでも素晴らしいのだけど。

なにかを察知したのか、昼間にアリソンから電話があり、事件の内容を話すなりオー、マイ、ゴッドと完全なるアメリカ人の反応をしてくれた。

アリソンのことは本当に大好きだと思う。

彼女に、なぜトルコの人たちはこんなにも孤独で虚無感にみちてるの。なぜ他の人にこんなに依存するの、と訴えると、孤独も虚無もうめてくれるのは神様だけなのにね、と彼女は言った。

神様のために誰かを好きになれば、その人への執着も要求も、依存する心も解消されるはずだよね。

すぐに神様をわすれてしまう人間はいつも迷いの中におちてしまうよね、、と電話を切ってから考えた。

 

何だか本当に大変なことになっているけど、明日はカドゥキョイに繰り出して気分転換だ。

本当に、元気を取り戻さなければ。

 

 

 

 

1月4日

 

全然書いてなかった。

 

日本に帰りたい。

お昼くらいに起きて、日本食が食べたいと考えはじめたら涙が出てきた。

最近朝にならないと眠れない。

昨日は特に心配なこともあって、それでなかなか眠れなかった。

起きてからもずっと眠気が重くて、自分でなんとかメネメンを作って食べたら元気が出た。

牡蠣鍋のことを考えている。

あとネットの友達のことと、香川の先輩のこと。結婚のこと。進路のこと。

正直人にとやかく言える立場じゃないと最近感じている。

たぶん帰国したらちゃんと籍を入れることになりそうなんだけど、本当にそれでいいのと信頼できるこちらの友人2人から聞かれた。

わたしはどこに自分を結びつけたらいいの。

いつも自分がどこにいるべきなのかについて迷いがある。

安心できるところを見つけてもすぐ不安になる。不幸すぎんか。

不幸の結果のおみくじが神様の近くに結ばれる。そのような人生なのか?

 

年末年始に同居人の恋愛が完全に?終わり、やっと平安が訪れたと思ったら、同居人のいとこがきて、結婚の準備(果てしない買い物)をしにイスタンブルにきた。

それから何となく家のテーマが「結婚」や「家族」になり、しんどい日々が続いた。

繊細すぎる自分、弱すぎる自分、嫌なことからすぐ逃げようとする自分が全部見えてしまうのも含めて、しんどく、一刻も早く逃げ出したくなった。

香川の先輩は宇宙飛行士に申し込むと言っていた。

地球から逃げても現世の苦しみ、肉体の苦しみからは逃げられなさそうだ。

 

牡蠣鍋

 

チゲ鍋

 

豆乳鍋

 

もつ鍋

 

すき焼き

 

おうどん

 

おそば

 

 

12月6日

 

朝の6時に寝て昼前に起きるというあれだったが、深めに眠れていたのでよかった。

母とディズニーランドに行く夢を見た。

夜7時になるとシャッターだらけになって、なんとも悲しい風景になってしまった。

ザーザー雨も降っていた。

わたしの夢の中で多いモチーフ。

暗い空、遊園地、雨に濡れたジェットコースター・観覧車。

テーマパーク的なところにトラウマがあるのかもしれない。まさか前世や先祖との関係?

 

起きてからすぐに1日のやるべきことを始めて準備ができてからすぐ出た。

税金を払いに行った。

途中で道に迷った。

意味不明なくらい急勾配な坂を一生懸命登ったのに、坂の下に目標があった。結局人に聞いた。

Googleマップへの信用度が下がり、現地民への信用度が上がった。

お金を払うときにトルコ語がうまいねと褒められた。あなたたちは人を褒めるのがうまいね。

そのあと、近くのモールで物色。

コーヒー店に寄る。若いお兄ちゃんがサービスでチョコレートをつけてくれた。

嬉しかった。正直トルコのこういうところが好きすぎる。

帰り道にまた服屋さんに寄ってから帰った。

夕方に先輩とライン。

ヤリチンも無双ではなくこの世界のかなしき運命を背負った人間たちの例に漏れず苦しんでるらしい。

先輩は男だがわたしからしたらヤリマンである。むやみに穴を埋めようとするな。

空洞人間は虚しい。帰り道切ない気持ちになった。

 

帰ってから旅行の相談。

電話の相手が疲れすぎていた。

あと本当に変人なんだなあとやっと分かった。

真面目ないい子だと思ってたが、彼もまた社会不適合者大学院生の例に漏れない人材のようだ。

そう思えばあらゆる意味不明な言動に対してなんとも思わなくなった。

コンヤで会おう!という最後の言葉がなんか面白かった。

電話が終わってから、なんとなく休憩した。

ファトマがやばいことになっていたがあんまり触れないようにした。

毎日新しい事実が明らかになっているらしい。

何が真実かとかもうわたしにもよく分からないけど、彼女の異常な体力には感心する。

暗闇に突き進んでいく力、事実と向き合う強さ。

なんとなく見ていられなかったのでネットの友達に電話した。

ネットの友達とはちょうどいい距離感で、この何も与えられず与えない関係がいびつでなんか面白い。

わたしのことを彼は炭治郎と呼ぶ。

 

電話を切ってからペルシア語の授業動画を見る。

もっと真面目にやろーぜ、と画面に映る人たちに言いたくなったが、わたしも怠け者なのであった。

ということでもう寝る。

 

 

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