3月8日
わたしは今日も昨日と同じで、寝る前にお茶をレンジで温めて、飲める温度になるまで待っている。
飲める温度になったら、そのお茶で寝る前に飲むべき薬を喉の奥に流し込むだけ。
それから布団に入っておわり。
おわりの後のことはもう分からない。
たまにすごく詳細な夢を見るけど、最近はあまり思い出せない。
おわりの後は、軽度の死が身の上に降り立ってるとしか思えない。
じゃあ死んだらどうなるのか。
それはまた別の話になる。
神秘家は、眠りは死の予行演習と言ったりしたみたいだけど、その通りだと思う。
でも死んだ後の世界のことは誰かが簡単に教えられるものじゃない。
だってそれはひとりひとりにとって違うものだから。
各々、各々にとってなつかしいところにパッと飛ばされることになる。
それがいわゆる死。
その場所で本当の本当の死の前の裁判を待つことになる。
わたしはそう知った。
解離した時に。そう知覚した。
眠ることは、生きてる間にできる死の予行演習。
これからわたしは死ぬの。
生きながらにして。
このまま、ずっとこのまま眠らせていて。
寝る前に祈ることも昨日と同じ。
そして、一日中眠くて、一日中祈ってる。
時間の波がなくなるまで、わたしは感覚を失ってしまいたい。
さよなら、ピンクの夕暮れさん。
さよなら、青色の夕暮れさん。
さよなら、グレーの夕暮れさん。
毎日変わる色の空にさよならって言ってから、部屋の電気をつける。
二度と見れない色のひとつひとつに、毎日挨拶しなければいけないような気がして、色が消えていくのを見守って、それから電気をつける。
電気はいつでも、常に同じ色で部屋に光を送っている。
安定には価値がない。
変わるものには価値がある。
そんな風に。
でももうそんな風に考えることにも疲れたので、
たくさんの種類の色に別れを告げる毎日にも、退屈は見出せるので、
わたしは祈っている。
神様、どうか。
神様、どうか。
わたしの答えに納得するなら、風で合図を送って教えてください。
そして神様からの伝言は何もなくて、わたしの持ってる答えは正解にならなくて、今日もまた、わたしはお茶が飲める温度になるまで待っていて、今日はたまたまその時間にこれを書いている。
早く死にたい。
それだけ。それだけ。それだけだ。
でもそれの何がいけないのか。
10年前の自分に戻っただけなのに。
わたしの「まとも」はこちら側。
誰かがわたしについて「元気になって」と願うのは、いったいどういう意味なのか。
わたしにとっての「元気」は、どっち?
あなたたちの正常を学習するのはもう、ほんとうに、疲れました。
元気と言われるまで、わたしはまた正常になることを学習して、演じて、笑ってなきゃいけないみたい。
それを見て喜ぶ人がいるならいいのかもしれないけれど。
さよなら、あらゆる色の人たち。
さよなら、あらゆる色の街。
さよなら、あらゆる色の空。
さよならって手を振って、蝋燭の火を消すように目を瞑って眠りに落ちていく。
今日も昨日とおんなじ。
何回もの死。何回もの復活。何回もの変化。
生きることの連続性。
その途切れ。睡眠。夢。
眠りが死の予行演習であるということは唯一の、この世界で許されたわたしにとっての希望だったりするのかもしれない。
さよなら、さよなら、さよなら。